昭和48年01月05日 朝の御理解



 御神訓 一、「食物は皆人の命の為に天地乃神の造り与え給ふものぞ。」

 お道の信心、金光教の信心の偉大さとゆうものを感じる御教です。食物を人間が食べられるという一節です。魚であろうが肉類であろうが、もう全て、人間が食されるとゆうものなら、それは全部、天地の神さまが、人間氏子の為に、造り与えられたものであります。これは食してはならん、これは飲んではならんといったようなものがない。もう本当に、天地金乃神さまの言うなら、面目躍如とでも申しましょうか、本当に素晴らしさをここに言い表しておられるように思うのです。
 ですから、命の為に天地の造り与え給ふものとおっしゃるのですから、頂く方の側としては、それを命の為に、頂かなければならないとゆう事です。言わば、命を害する為に、それはどんなに、例えば慈養の有るものを頂きましても、どんなにおいしいものを頂きましても、それが食べ過ぎたり、量がすぎると今度は、命の為どころか、命をがいする事の為になるのである。
 ですからもう、命の為に頂かして貰うとゆう事にならなければ、折角の神さまの大御心に反する事になる。そこの所をよくよく心掛けさせて頂かなければいけん。頂ましたおいしかった、有難う御座いました。もう食べ過ぎて、やすやす言うごとなったと。それじゃいけんのです。そこの所を間違えないように、それを本当に身につけて行く所の、所謂食物がいよいよ血に肉になってくる所のおかげを頂かなければならん。最近五つの願いの中に、第一番に有ります。
 体の丈夫を願え、どうぞ健康でありますようにと言うて願うからには、決して大酒大食、所謂食べ過ぎたり飲み過ぎたり、又はいかに、それは体に効くからと言うて、食べ過ぎて目がつぶれたと言う様なのが有りますからね。あんまり効き過ぎてそういう事ではかえって神さまに対する御無礼になるのですから、頂くものの側としては、どこ迄も命の為に頂く事にしなければいけません。食物を命の為に、所謂健康の為に下さるのですから、そんなら私共の心の為に下さるもの、所謂心の糧とゆう事を言う。
 食物が命をまっとうしていく為の糧になりますように、心に頂かせるもの所謂心の食物、心の食べ物とゆうものをです、心の糧と申します。そこで私はお道の信心させて頂く者はです、神さまが私に命の為に下さる神様が私の為に下さる事柄、それは問題と言うてもよい。それを全て、あなたの心の為に下さるのだとゆう頂き方。あれは食べんこれはいやと言いよると片寄った事になる。
 所謂偏食するのと同じ事になる。まんべんなく丁度体に片寄らないような頂き方をする為には、食物の好き嫌いを言うてはならないように、心の糧に於いてもしかりである。甘い事だけは受けるけれども、辛いのは御免だ、苦しいのは嫌いだと言わずに、言うなら食膳にのぼってきたものは何でも命の為に下さるものだとして、頂かして貰う様にです、私共の目の前に、言うならば、与えられる所の事柄とか問題とゆうものをです、よくよくその性質を勿論、見なければいけません。
 そしてそれを頂いていくとゆう行き方。ですから「事柄は皆人の心の為に、天地乃神が与え給うものぞ。」と頂いてもよい訳なんです。道理の上に於いては、同じ事なんです。そこでです。例えば御地内をみだりに汚がすなよ」とゆう又の御神訓がございますけれども、御地内と言えばおかげの場であるように、私共のおかげの場は何と言うても心なんです。人間の幸不幸の所謂、受けものともうしますかねそれは心なのです。
 ですから、御地内をみだりに汚がしてはいけないように、心をみだりに汚がしてはいけんのであります。この頃の人間は非常に懐疑的になったと言われます。疑わしゅうなってきた。この辺の所がです、私はお道の信心は、兎に角一切を有難しで受けていくとゆう生き方、今日の食物は皆、事柄は皆人の心の為に天地乃神が造り与え給うものですから、それを有難く頂くとゆう事が、いかにおかげの受けものを汚さんで済む事かとゆう事が分かります。いろいろな事で心を汚します。
 いや汚しよらんように有るけれども、いつの間にか汚れます。心が汚れるそれに気付かせて頂いて、それを清めるいわゆる改まっていく。よごさないとゆうだけではなくて、それをいよいよ清めたものにしてゆく。どうでしょう油びんを持って酒屋にお酒を買いに行くとしますと、酒屋さんは中々そんな油くさいびんに酒、よう入れてはくれませんよ。よし入れてくれたにしましてもです。どんな銘酒であっても、油臭うしてもう飲まれん。折角神さまが下さったおかげでも。
 自分の心の所謂器がね、汚れておったり穢れておたりしたんでは、折角のおかげに傷がつく。愈々おかげをおかげたらしめる為に、みだりに穢しちゃならん。心をみだりに穢しちゃならん。腹を立てる事なんかはもう、愈々心をよごしておるとです。言うなら神の気感に適わんと、言われる心の全てが、心を受けものをこわしたり、汚したりするのです。それでいて、どうぞどうぞおかげと言うても神さまは、おいをれとおかげは下さるはずはありませんよね。五つの願いの二番目に有ります。
 家庭の円満、家庭に不和のなきが元と仰るから、どうぞ円満のおかげを頂きたい。という切実な願をお互いが皆んな持っておる。もう是は限りが無い事。只仲が良いとゆうだけではなくて、拝み合うて行くと言う所迄高められなければならんのですから、拝むとゆう事はもうきりがない事です。限りがない事。為には神様決して人を責めたりは致しませんとゆう所になって参ります時にです、愈々心を汚さんで済む。
 なる程おかげが受けられるとゆう事が分かります。みだりに汚さない、もう責めた時には、もう既に汚れておる時です。だから詫びる、「うっかりして責めました。」と言う時には、これをお詫びをさせてもろうて、ことわりを言うて清めていかにゃいかん。昨日は、神愛会の先生方の集いでございました。でお話しました事ですけれども、どうでもひとつ、お道の信心をさせて頂いて、お徳をうけなければいけません。
 その為にはまず、力を受けなければいけません。私は今迄力とか光とかゆうものを徳の、又、別の名詞のように皆さんに言うておりました。私もそう思うておりました。力とか、力を持ってある人はもう徳を受けたと言いますから、そうじゃないそれは力でとりよる、信ずる力でもらいよるとです、力で。けれどもお徳とゆうものは、そんなものじゃない。奪うのではなくて力で取るのではなくてね、頂くのですから、神様が下さるのですから。そこでお互い力を頂くことの為に、私共が永年修行させて頂いた。
 所謂成り行きを大事にしていく、尊ばして頂く。神様を尊ぶとゆう事は、成り行きを尊ぶことだ、大切にする事だとゆう風に頂いて参りました。またはその成り行きとの対決だとも言うてきました。いろんな問題が起きてくる。なる程有り難く頂く事が本当だけれども頂けない。けれども頂かなければとその事の問題と対決してくる。私はこの対決の時に、力を受けると思うです。それはたとえば失敗をして負けたに致しましてもです、やっぱりそれに取り組んでおりますから、負けたり勝ったりの中にです。
 段々力がついてくるのです。だから力と徳は違うでしょう。これはもうどうしてもです、成り行きとの対決、成り行きを大事にするという所迄ね、尊ぶという所迄高められる事です。そこに力はいやが上にもついてくる。そして負けたり勝ったりしながらもです、言わばそれに対決させて頂いておるとです。例えば日々がね、確かに有り難うなってくるです。ああ今日もよかった、あの問題の時に、失敗せんでよかった、とゆうね喜びと言うですか、神様がようこそ辛抱したねと言うて、神様が喜んで下さる。
 喜びがこちらにかえってくるのか分かりませんけれども喜びです。ああ今日も辛抱しぬかせて頂いてよかった、と。それが光なのです。それが小さい光なのです。その光がね段々段々大きくなってくる。所謂ちょいとどん風が吹いたっちゃ消えんごとなってくる。日々その御事柄として受けてゆかれる。その御の字がつけられる所迄が対決なんだ。その対決する言うならそれとこう四つに組んでです、相撲とっておる様なもんです。
 ですから場合には、負ける事もありますけれども、それが一切をおかげにしてゆく事になります。楽しみが出来て参りますしね。それが言うなら、勝ち続ける事が出来る。愈々力が、言わばゆとりが出来てくるとゆう事は、力が余ってくるとゆう事なんです。いろんな問題に直面した時です。ほんにこれが一年前ならそうに私もかんかんになって腹かいた事じゃろうけれども、何とはなしに相手の事を祈ってやるような心でともうしましょうが。これは、ゆとりが出来てきた。
 ゆとりができんからチンと言うたらカンと言わにゃでけんごとなってくる訳なんです。それは力が出来てきた証拠です。だから力が出来てくると言う事によってです。次に頂けるのが光です。それを信心の喜びとゆう時なんです。私はその力が光がもう既に徳だと言ってましたけれども、徳を受ける前提なのです。ですからお徳を受けるとゆう事の為には、どうでもここを通らなければならないと言う所に。
 私が成り行きを大事にする、御事柄として頂くとゆう事が、いかに徳を受ける前提であるかとゆう事が分かるでしょう。そして今言われる、そうゆう心で五つの願いを願い抜かせて頂くというところにです、健康になり、家庭が円満になり、愈々日勝り月勝り年勝りに家繁昌、子孫繁昌のおかげを頂く事が出来てくるようになる。そういう力をもって、そうゆう明朗さをもってです。
 神様にお喜び頂けれる、気感に適う心をもって、御用にお使い下さいとゆうのであり、天地の親神様の悲願、御神願成就の事の為に、奉仕させて頂こうとゆう神恩報謝の心が湧いてくる。先月からも皆さん申しておられますように、もう願えば願う程です、これはもう事実を言うたら容易と思いよったけれども、難しゅうなってきたと言われるのです。そうでしょう、今迄の信心よりも容易うなるとゆう事は絶対なですよ。
 昨日教師会の時、幹三郎も参加しておりましたが、発表しているんです。今迄の合楽の信心は、余りに深くて広くてね、どこから、手を着けて良いやら分からん、感じだったけれども、僕は、今度合楽に帰らせて頂いて、この五つの願いというものを聞かして頂き、みんなが、それを神習しておられるのを見てですね、もう本当に素晴らしい事になってきた。これはもう、僕達でも、それに取り組んで行じられる事が出来る、という意味に事を話しているんです。
 けれども実際取り組んでみた人達が、今どういう事を言っておるかと言うと、もう実を言うたら、大変な難しい事だけれども、その難しいけれども、楽しくなってきたと言うておる。心に迷いの闇が迫って来ると悩みは果なし、乱れる心に願うは誰がこと、御親恋しくてあせれど、涙あふれて無明は尽くせんとゆうような、この涙あふれて無明は。どうしても、明かりに触れられない、信心を求めてやまない心がです、本当に親先生が仰るようにこの三つの先の願いだけは、人間誰しもが持っておることであるから。
 もうその場で願えれるようになった。その為にならどげな修行でもしますとゆう覚悟も出来るけれどもです、後の二つの願いになってくると願ってはおるけれどもその切実さのないのにです、涙があふれる程に悲しゅうなってくるとゆう。この悲しさとゆうのは、もう実に何とも言えん信心の喜びなんです。悲しみとゆう言葉は、ここで言う悲しみは、絶対のものを前に置いて、そしてそれに近づいてゆこうとゆう楽しみなんです。稽古しても稽古しても出来ん、出来んけれどもやはり楽しみなんです。
 これはもう、そこを味おうた者でなからにゃ分からん。五つの願い、そんなにてんばら安ういくはずはない。やっぱ今迄の信心よりかちった難しい、只それをね、焦点がただハッキリしてきたとゆう事。それに取り組みやすくなってきたとゆう事。それが今日私が言わば徳への道すがらと申しますかね。もう徳への道順とゆうものがです、まずは力を受けなければならない、光を受けなければならない。
 そしてうん、もうあの光ならば消えないぞ、と。もうあの力ならば大丈夫と神様が思し召した時に、頂けるのがお徳なんです。御信用。ですからやっぱりお徳とゆうものは、昨日も私が言うごと簡単にお徳が頂けるなら、世の中は、もう世界中が一辺に平和になってしもうてもう有り難い有り難いものばあっかりになったら、もう幸せとゆう言葉がなくなってしまう位になるだろうと。してみるとです。
 難しいからこそ、だけれどもお道に御縁を頂いた、いや合楽に御縁を頂いておった人だけぐらいはひとつ心を本気で体得しなければいけないね、と言うて昨日話した事でした。ここのところの成就を願わなければいけんのです。それこそ私どもの信心が段々向上して参りますと、お役に立ちたいお役に立ちたいの一念がです、燃えてくる。こうなった時には、神様がもう絶対お徳を下さるです。
 もう本当にお役に立ちたいお役に立ちたいの一念の氏子を見捨てなさるはずがないです。いや神様がそれを使おうとなさるです。使って又、徳を下さろうとなさるです。だから後の二つの願いとゆうものはです、いよいよお徳をうけさせて頂く事の為のねがいなのです。実は神様の御用にお使いまわしを頂きますようにとゆう願いは、それが本当に出来る、その為に修行をいといませんとゆうような行き方になったら。
 昨日はちょうど会合の中ばに、ここの取り引き銀行の九州相互の支店長の方といつもここへみえる方が、年頭の挨拶にみえました。それで客殿に通してお茶でも差し上げていろいろお話を、結局私のお話を聞いて下さる事になったのだけれども、お話をさせて頂いた事でしたけれども、こうゆう事を言われるのです。先生合楽との拘り合いが出来てお引き立てを頂いておりますけれども、合楽の教会の場合は、私どもひとっつも不安に思っておりませんからどうぞよろしくお願いしますとゆう事であった。
 いいやそんな事言うてもらうと気の毒な、何故かと言うと、私どもの方当てがぜんぜんないとでしょうが。これだけの事業しよりますから、これだけの収入があるとゆうのじゃないです。私の方は…いつ神様がストップなさるのか分からんのだ。まあ今日迄はおかげを頂いて一年勝りにおかげを頂いておりますけれども、いつどういう事になるやら分からんのですからあんまり安心ばっかりされてはいけませんよ。
 けれども、これだけの事は私は言えますと言うて、うかつに私は言うてしもうてからハッとしたのですけれども、もし万一こうしておいでられましてね、私の方の庭先の下駄が乱れておったり、便所がよごれておるような時には、あいたこれは合楽はおかしいぞと思うて下さってもいいですと私は申しました。言うてしもうてからこらしもうたと申しました。なしかていつも乱れておるから、だからよっぽど今度はお繰り合わせを頂いてきちっと揃うとる時い来てもらわにゃいかんなという事になります。
 便所どんがよごれとる時に来てもろうたらあいたこれは合楽はしまえるぞという風に思われてもいいと私は申しました。ですからゆうべ青年会の方達に、ゆうべは松栄会でした、若先生が体をちょっとそこねてましたから、私がちょっとひと口お話させて頂いた。もう只机さえ並べときゃよかちゅうごたる風でしとりますから、机は真ん中に揃えなさい、座布団を持ってきなさい、その灰皿は、信者控え室の灰皿じゃないですかと言うてその雰囲気作りを私はまず先にする。
 灰皿でんなんでん、どこからでもわがええごと持ってきてから、ちゃあんと、灰皿でんなんでん部屋部屋に決まっとるじゃないか、だからそうして、そこから生まれてくるという信心共励でなからにゃいけない。ろくそな事をまずやめなきゃいかん。と言うて今日私は銀行のその支店長の方に言うた事を話しました。だからこれは皆さんに頼むのです。皆さんにお願いをするのです。合楽の教会もこれだけ広うなった、だからどこが散らかっとっても汚れとってもいかん。
 なしや心を研く道場ですからここは。そこの便所が汚れておったり、たとえば足元の所の下駄が脱ぎ散らかされておると言った様な事で言うならば、心を研きよる者の言わば道場とは言えないでしょう。だからこれは、まあ私自身申しました事は、もう結局んならここでは必要なものが必要に応じて頂けるとゆう事は、大変有り難い事ですし、又事実そうでありますけど、今日迄。
 けれども私は反省としてです、たとえばそんなら部屋が散らかっておる、よごれておる、破れておるとゆうものを見た時に、私のいわゆる心とゆうものをあら破れてはおらんか、よごれてはおらんかと反省致します、と。中々厳しい事ですねと支店長は言われました。ですから今のお話をさせてもらって。私の方へみえられてなら便所がよごれておったり履き物がこう横縦になっておるような事であったら、これは合楽の信心はおかしいぞ、これはあんまり安心ばかりはしておれんぞとゆう風に。
 けれどもそれがきちっとしておる間だけは大丈夫ですからご安心下さいと言う様なお話をした事でした。今日はもう大変結構なお話を頂いてとゆう事でございましたけれどもね、そして言うておられました。支店長がいつも来る人にです、「あれはこちらのお教会とはどうゆう事でお取り引きする事になったんですかね。」と聞きよんなさいますもん。そんなに無抵抗にスムーズにですね、何千万の金を貸されるのにそうゆうお繰り合わせを頂いておる事を私は改めて思いました。
 支店長が「あれはどういう事でお取り引きをするようになったんですかの。」とその聞きよんなさるとですもん。例えばそんなら宗教関係には、お金はもう本部がうしろだてあっとっても五百万以上は絶対貸さん事になってるんですよ。本部が関わっておる所の銀行であっても。それに何千万のお金をですね。それこそハッと言うて貸して下さったとゆう事。しかもこちらの申込よりか、まあ五百万ばっかり借って下さいとゆう事であった。いらんと言うたけれども結局は要る事になったから借らして頂いたけれども。
 そういう例えば中にそんなら私がいかに心をよごすまいとしておるか、いかにその事を心の為に心の糧として頂いていきよる。その精進というものが今の支店長との話し合いの中に感じられるでしょう。皆さんのうちでもそうです。息子がどうの、家内がどうの、主人がどうの、言うならもうこれはのんぼり向いてつばはきよるようなもんです。合楽の信心頂いてから。
 ですからそこを自分の心の上を清める為の材料にさせてもらう。又は、自分の心の中が破れておるならば、破れておる所を修繕させて頂く。お気づけと思うて心の上を大事にしていくとゆう事が、食物は皆人の命の為にとゆうところを、事柄はいわゆる問題は皆人の心の為に天地乃神が造り与えられるものであると確信して頂いていくとゆう生き方。それをいよいよ身につけていくとゆう事。
 御地内をみだりに穢すなよとゆうようにみだりにもう自分の心をこの位で腹かきよったんじゃ、又神の気感に適わん心使うちゃもうこんなに馬鹿らしい事はないのですから、穢しちゃならん、汚しちゃならん。みだりに穢しちゃならんとゆう思い、穢れたならば、汚れたならばもうすぐ拭き取らして貰う、清めさせて貰うとゆう行き方がです、金光さまの御信心だとゆう事を皆さんが思い込ませて頂くとゆう事。そしてそれが血になり肉になりするのですから、健全の心にまた健全な体が宿ってくる訳であります。
 大体は今日の御理解は、食物に対する食物訓でありますけれどもそれをそうゆう風に金光さまの信心の偉大さ、もう底が無い程に大きいとゆう事をです、分かって頂くという事と同時にです、その偉大なおかげ、底が無い程しに所謂無限大におかげが頂けていく事の為にです、私共はここの食物はと言う所を、問題は私どもの命の為、頂くという心の為に下さるものとゆう頂き方をです、信じて疑わずに頂いて参られましたら必ず力もついてくるでしょう。光も大きくなってくるでしょう。
 そして自分乍ら、それに確信が持てれる頃はです、神様も又それをもうあの氏子は大丈夫とゆう御信用もついてくるでしょう。それが初めてお徳だという事になるのです。お徳を勿論限りなく頂かせてもらうておかげを頂、ひとつ信心の言うならば喜び、又は信心の悲しさ。教祖さまが嬉しいやら悲しいやらとゆう言葉を使っておられる。私が今日言う悲しさはそういう意味の悲しさです。どうしたなら親孝行が出来るじゃろうか、本当にどうしたなら親孝行が本当にあの手も使うてみた。
 この手も使うてみたけれども、まあだこれで済んだとは思われんが、どうゆう風な信心させてもろうたら親に孝行する事になるだろうか、神様に喜んで頂く事が出来るだろうかと思い思うて生まれてくる心が嬉しいやら悲しいやら。昨日は久保山先生のお立日でした。それで子供達、孫達迄みんな集まってから霊さまにご挨拶させて頂いたんですけれども、田主丸におります孝さんが家内、子供みんな連れてからお参りして来ておりました。そしてここでお届けをされるのにです。
 「親先生どうぞ父の信心を頂かせて下さい。」「もう孝さんこれが何よりかのお供えばい。」と私は申しました。お父さんの信心を受け継がせて下さい。もうどんなにそれこそ特級酒のお酒よりも、どんなに素晴らしい甘いぼたもちよりも孝が私の信心を受け継ぎたいと言うておるその事が、霊さまの最高のお供えと私は申しましたがです。そういう例えば信心を頂きたい頂きたいと思いがつのってくるとです。
 必ずその信心に行きづまりが来ます。頂きたい頂きたい。だからその行き詰まったとこからです、喜びとも悲しみとも分からん心が生まれてくるのです。そこを頂きぬかせて頂いた時にです、言わば今日の言うならば有り難いおかげ、いわゆるお徳の頂ける世界とゆうものが開けてくるのですから。どうぞ今日は、寒修行の初日に当たりまして、これからの信心の土台、根本にならなければならないところを頂いたような気がしますですね。
   どうぞ。